入河屋の歴史
HISTORY
HISTORY
初代の甚作は、現在の湖西市入出に三男として生まれ、もともと魚問屋でした。
浜名湖近辺の港で仕入れた魚を、奥山の方広寺の前の、料亭や旅館に卸していました。でも、人が良すぎたのか、保証人倒れになったらしく、商売ができなくなったのです。
そんなときに、三ヶ日の人たちから声がかかり、明治14年に三ヶ日に移り住み、明治18年に入河屋を創業しました。
初代はとても器用で、鯛や果物をかたどった「おまんじゅう」が評判を得て、「まん甚さん(おまんじゅう屋の甚作さん)」と呼ばれていました。
最初は甚作饅頭を中心に和菓子の製造販売を行ってきた当社も、時代の流れと共に常に新しい技術を取り入れ、現在に至ります。
当店の代名詞でもある『みかん最中』は、昭和29年販売開始。
戦争から戻った三代目の松嵜勉が創作したものです。もともとお菓子というのは、「菓子」と書くぐらいなので、果物の代わりとしての役割がありました。そして、贈答用という役目があります。
お菓子屋も、手みやげに買っていくとか、その土地を訪問した人が、おみやげに買って帰る、というふうに利用されていました。そんな中、三ヶ日には、みかんの時期以外はみかんがないので、三ヶ日らしい手みやげがないという状況でした。
そこで、「三ヶ日ならでは」で、年中手に入るものを考えよう、ということでできたのが『みかん最中』です。
昔はそんなに材料も豊富ではないし、冷凍や冷蔵の技術もない時代なので、季節ごとの素材を保存することが、まずできません。その代わりに、形やパッケージで表現しました。
四代目の松嵜哲の時代にみかん最中は更なる進化を遂げます。
基本レシピはそのままに、四代目はより良い素材を使うことでみかん最中の味を向上させます。現在使っている素材の多くは四代目がみかん最中にあったものを見つけ、五代目の松嵜善治郎へと受け継いでいます。
看板商品の『みかん最中』とともに、お店は新しい時代を歩みます。
四代目の若いころ、ある洋菓子店のケーキを食べた際、「世の中に、こんなにおいしいものがあったのか!」という衝撃を受け、洋菓子修行に行くことに決めました。修行から戻った四代目は洋菓子の製造と販売を始め、今も作り続けています。三ヶ日で洋菓子を始めたのも当店が最初でした。
そして、当店の名前も入河屋から『和洋菓子司 入河屋』とし、広く地域に根付いたお店に変わっていきました。平成16年には浜松の中心市街地にある遠鉄百貨店に出店(現在は閉店)。平成19年には豊橋の湊町店も開業。点から線、線から面へと変わることで、より地域の皆様との結びつきは強くなっております。
その地域により還元できるようにと平成27年には、地域資源である「うなぎ」を使った煎餅『うなぎの浜名湖せんべい』を発売。現在は新東名高速道路のネオパーサさんや、浜松駅のKIOSK(キオスク)でも取り扱っていただいております。
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